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悔いなき人生を送りたいと思っている人ほど、悔いが残る生活を送っているかもしれない

一時期「いつ死んでもいいように悔いのない人生にしよう」と思っていた時期がある。

この「死んでもいいように」は自分の終わり方を考えていると言ってもいいのかもしれない。

最近思うことは「悔いがない人生を送りたい」と思っている人ほど、実は悔いが残る日々を過ごしていて、それに執着しているのではないか?と思うようになった。

私はいま38歳ですが今が一番楽しい!

そう感じられるようになったのは様々な艱難辛苦や経験を積み重ねて、自分なりの真理が見えてきたからだ。真理をより鮮明化にするために、やっとそれに合わせて自分から行動できるようになってきた。

そうなると毎日楽しくてしょうがない!毎日何かを学び、美味しいものが食べられて、好きな仕事も一生懸命にでき、会いたい人に会える喜びをいちいちかみしめてる。

私は3度ほど自分の「死」を感じたこともあるがどれもタイミングが良かったり、不思議な力を感じて無事助かっている。3度も助かっていれば自分は何か大きな力によって「生かされている」ということがわかってくる。

そして毎日楽しい!と思っている私が思うことは「1日でも多く長生きしたい!!」ということだ。「楽しい」にはもちろん受難も含まれている。

老後資金がどうとか、孤独死とか、そんなことをいちいち不安になっても仕方がない。なるようにしかならない。父が孤独死したときに孤独死の現状を警察の方から聞かされ、実際に体験してみて「なるようにしかならない」と学んだ。

受難を楽しみながら長生きしたい。
今現在の私はこれ一点にこだわっている。

だって、本当に人生を丸ごと楽しんでいたら、楽しいことは続いて欲しいと思うのではないか?って思っちゃったんです。

もっと美味しいもの食べてみたいとか、会いたい人にたくさん会いたいとか、大切な人は残していけないとか、知らないことを経験してみたいとか、楽しければ楽しい分だけ続いて欲しいなって思うんじゃないかと。

時間は有限だとわかっているからこそ、時間がたりなく感じて少しでも長く時間を得たいと思う。
それが自然な気がするのです。

最近では「悔いなき人生を送りたい」なんて思わないと気がついた。
それは悔いがないくらいの楽しい日々を自然と送れているからではなかろうか。

「悔いなき人生を送ろう」と思っていた自分を思い返したら、そういう生活を送らなければならないとプレッシャーを与えていたような気がするし、無理に充実感を得たいとがんばっていた気がする。でもこれって無理をしていて全然自然じゃないよね。

「悔いのない人生を送りたい」と思うことは大切。
まず気づきがあって、初めて行動に移せるから大変意味あることだと思う。

ただ、その「悔いのない人生を送りたい、終わりはこう迎えたい」を超えると「生きながらえたい、しがみつきたい」があるのではないかと思った。

やり残すことないようになんていうけど、日々楽しく暮らしていたらどんどんやりたいこと出てきちゃうから無理だって最近思う。それにどんな小さなことでも死ぬ時には悔いが出てくるだろう。

有名な高僧、一休さんや仙厓義梵も臨終の言葉は「死にとうない」だったと伝えられていている。智慧のある人ほど生きていく楽しさをきっと知っているだろう。

「今を生きる」が仏教の教えであるならば、彼らは最高の形で表現できているのではないか?と私は思った。

高僧という身分やしがらみがあるにも関わらず、彼らが「今どうしたいか」を素直に残したところにある種の悟りが見えるような気がするのです。

桜の花びらも散りゆくから美しいが、最後までしがみついて残っている花びらをみて「まだがんばってる」と生命力を感じたりする。

私はそこに美しさを感じるのだった。

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