
ブログ開設当初から定期的に取り上げているテーマがあります。
それは「沈黙力」
この「沈黙力」は大人たちが養わなければならない力の一つだと思っています。
口をつぐむことができない人間は信頼できない
わたしは黙れる人が好きです。
決して口数が少ない寡黙な人ではなく、”黙れる人”です。
黙っていなければいけない場面で黙れる人。
黙る美学を持っている人。
正直であることが常に良いわけではありません。モラルがあるかどうか、相手に配慮できるかどうか等、黙るという姿勢から人間性がうかがえるときがあります。
普段はおしゃべりでもいい。
でも、” 時には口をつぐむ ” ことを知らなければいけない。
「あの人に○○されました」
自分が被害者かのようにペラペラ話す人。
「あの人は○○だと思っているらしい」 「あの人は○○な人なんだよ」
人の噂話が大好きな人や事実確認をせずにペラペラ話す人。
その人限定で信頼してしゃべったことまで他者に面白おかしくペラペラ話す人もいる。
黙っていられないのはなぜでしょう?
あの人がどんな人かは、わたしが決める
事実だとしても、他者にその情報を与えるのは、本当に必要なことでしょうか?
自分が得た情報を使って印象操作をするかの如く(あるいは無意識に)、日常会話の中でやりとりをする。これらは全て主観で判断している上に、人に伝える時点で自分に合わせて話が盛り気味になるので客観性に欠ける。
わたしは基本的にそういった情報はスルーするようにしています。
たまには愚痴を言いたいこともあるだろうし、その気持ちも十分わかる。
そういう場所も必要だとわかっている。
でも、明らかに頻度が多かったり、愚痴ではないだろうと思われるものがある。
正直、こちらが聴いてもいないのにそんな情報はいらないものだ。
ここでわたしが受け取る情報があるならば「あなたは自分の問題を他者に告げ口をし、散らかす人間の可能性が高い」という情報だけで、相手の評価がわたしの中で変わることはない。
あの人がどんな人かはわたしが決める。
関係性も知らずにわたしは判断しない。
わたしはわたしにされたことだけを視て自分で判断する。
黙る美学のために、わたしは嘘つきになる
「わたしは印象操作をしない」と心に決めること。
それは完璧にできるわけがないのだが(相手の受け取り方でも変わるので)「わたしも気づかずにやってしまうかもしれない」そういう意識があるからこそ、悪い印象を与えないように意識することを心がけている。
そういう自分でありたいという気持ちは大切ではないだろうか。
だから人へのダメ出しは、極力人前ではしたくない。
” 自分と相手の間だけでトラブルが起こったこと ” であり、自分だったからトラブルが起きたのかもしれない。自分がトラブルを起こしたのだと思ったほうがいい。
自分の主観で物事を判断し、 ” 自分がそう思っているだけ ” のことなのだから自分の心の中にとめておけばいい。
相手のせいではなく、自分に目を向けられる人でありたい。
そして、誰かの悪口や噂話を聴いたときも、当人には知らないふりで黙ることにしています。その時、わたしは嘘つきになる。
「○○さんがあなたのことを○○って言ってたよ」
言われた方は不快になるだけです。
本当に仲良くて大好きな友人なら、思いやりで言わないと思います。
わざわざ心配と不安を与えることはないし、自分でその人のことを信じていれば言う必要はないはずです。
話していいのは褒めていた時だけだとわたしは思ってる。
そして、告げ口した本人の評判も落とすこともない。
わたしはあなたたちの問題に立ち入りませんと線を引くことになります。
なぜ、それを他者に伝えたいのだろう?
伝える必要があるのだろう?
そこに焦点をあて自分について考えたほうがいいのではなかろうか。
わたしは黙る人を応援します
黙ることができる人は、自分と相手だけの問題だとわかっている人だと思う。
わたしも黙る人だから、黙ることを貫くことがどんなに大変なのかがよくわかる。
時には理不尽なことをされる。でも相手と同じにはなりたくないと思う。
私はモラルのある人でいたいと黙る。
噂話や陰口を叩かれても、悔しい思いをしながら知らないふりをして黙る。
信頼のある人でいたいから黙り続ける。
そして、同じ悔しい思いを相手にさせてはいけないと配慮できる優しい人だ。
だから、わたしは黙る人を応援したいと思う。
モラルを貫こうとする姿はとても美しいからだ。
自分の目で確かめ、自分の耳で聴いたことを信じ、自分で付き合うかを決定していく。
それが黙る人たちへの応援になる。
それらができないうちは他者の言葉や噂に踊らされ、他者からの支配の世界で生きている証拠だ。
黙ってじっくり観察、黙ってしっかり聴く、ギャーギャー言わずに黙って決定していく。
黙る人を応援していこう。