セックスというと、性交そのものを思い浮かべる人が多いと思います。
でも、身体のコミュニケーションはもっと前から始まっています。
手をつなぐ。
抱きしめる。
隣に座る。
背中に触れる。
髪に触れる。
同じ場所で、身体の温度を感じる。
そういうものも含めて、
わたしは「身体と身体のコミュニケーション」だと思っています。
言葉では「大丈夫」と言っていても、
触れてみると身体が硬くなっていることがあります。
反対に、何も話していなくても、
誰かに抱きしめられたことで身体の力がふっと抜けることもあります。
身体は、言葉とは違うところでコミュニケーションをしているのかもしれません。
相手の身体を置き去りにしない
セックスには、どうしても「すること」に意識が向きやすいところがあります。
どうすればいいのか。
どこまで進むのか。
相手を満足させられるのか。
自分は満足できるのか。
そんなふうに頭で考え始めると、
いつの間にか身体そのものが置き去りになることがあります。
でも本来、
触れるということは、
目の前にいる相手の身体と出会うこと
なのだと思います。
今、触れたいのか。
触れられたいのか。
近づきたいのか。
少し離れていたいのか。
心地いいのか。
怖いのか。
そこには、その瞬間の身体があります。
昨日は心地よかったことが、
今日は嫌なことだってある。
さっきまで触れてほしかったのに、
途中から「もういい」と感じることもある。
身体は変化しています。
そのとき、その身体がどう感じているのか。
そこにお互いが耳を傾けることが、とても大切だと思っています。
愛があっても、したくない日はある
愛しているからセックスをする。
セックスをしないから愛していない。
そんな単純なものでもありません。
疲れている。
眠い。
考え事をしている。
身体に触れられたくない。
ただ一人でいたい。
理由は分からないけれど、今日は違う。
そんな日もあります。
それを、
「愛されていない」
「拒絶された」
とすぐに意味づけしなくてもいいのかもしれません。
反対に、
セックスをしたいと思うことも自然な身体の感覚です。
大切なのは、
どちらかの身体を正解にしないこと。
一方が我慢して合わせるのではなく、
二つの身体の間に、今どんなことが起きているのかを見ること。
そこからコミュニケーションが始まるのだと思います。
言葉だけではないコミュニケーションがある
以前のわたしは、
セックスを「性エネルギーの交換と循環」と表現していました。
今なら、それをもう少し広く捉えています。
触れたときに感じる温度。
呼吸。
安心。
緊張。
心地よさ。
近づきたい感覚。
離れたい感覚。
相手に触れることで自分の身体に起こること。
相手から触れられることで自分の身体に起こること。
そういうものが二人の間を行き来している。
それを「エネルギー」と呼ぶ人もいるでしょう。
別の言葉で捉える人もいるでしょう。
名前は、それほど重要ではないと思っています。
ただ、
身体と身体の間には、言葉だけではないコミュニケーションがある。
それは今でも感じています。
触れる前から、もう始まっている
話を聴いてもらえた。
大切に扱ってもらえた。
嫌なことを嫌だと言えた。
断っても関係が壊れなかった。
自分の気持ちを尊重してもらえた。
そういう日々の積み重ねを、身体は覚えています。
日常の関係性そのものが、身体の安心につながっている。
だから身体のコミュニケーションは、
触れた瞬間から始まるのではないのでしょう。
普段どんなふうに相手と関わっているのか。
そこからすでに始まっている。
愛あるセックスとは何だろう
「愛がある」とはどういうことなのでしょう。
今のわたしなら、
相手の身体を、自分の目的のためのものにしないこと
と答えるかもしれません。
そして同じように、
自分の身体も、相手のためだけのものにしないこと。
触れたい自分も大切にする。
触れられたくない自分も大切にする。
相手の「触れたい」も大切にする。
相手の「今日は違う」も大切にする。
どちらか一方ではなく、
二つの身体がそこにある。
その間で、
「今、どんな感じ?」
と感じながら触れ合っていく。
セックスとは、
身体を使って何かを達成することではなく、
二人の身体が、その瞬間に出会うこと
なのかもしれません。