「与える行為が、相手にとって毒になることもある」
今回は、そのことについて書いてみたいと思います。
これは、私が身体に触れる仕事をするうえで、とても大切にしていることでもあります。
「よくしてあげたい」は、本当に相手のため?
セラピストとして人と関わっていると、
「楽にしてあげたい」
「治してあげたい」
「何か答えを渡してあげたい」
と思うことがあります。
相手が苦しんでいたら、なおさらです。
これは優しさでもあると思います。
でもわたしは、
その優しさが、いつでも相手のためになるとは限らない
とも思っています。
すぐに答えを教える。
すぐに苦しみを取り除く。
すぐに「こうすればいい」と伝える。
それによって、その瞬間は楽になるかもしれません。
でも、ときにはそれが、
その人自身が感じたり、考えたり、答えを見つけたりする機会を奪ってしまう
こともあります。
「与える」ことが、相手の力を奪うこともある
これはセラピーだけではありません。
子育てでも、
介護でも、
人間関係でも、
同じことがあると思います。
相手が困らないように先回りする。
失敗しないように答えを教える。
苦しまないように問題を取り除く。
一見、とても優しい行為です。
でも、それをずっと続けていたら、
その人が自分で考えたり、
自分で選んだり、
自分で失敗したり、
そこから何かを見つけたりする機会までなくなってしまうかもしれません。
だから、
「何かをしてあげること」だけが、相手を大切にすることではない。
とわたしは思っています。
身体に対しても同じなのかもしれない
身体に不調があると、
私たちはすぐに、
「どうしたら治る?」
「どうしたら良くなる?」
と考えます。
痛みがあれば、痛みをなくしたい。
硬いところがあれば、緩めたい。
動かないところがあれば、動かしたい。
もちろん、必要な治療を受けたり、症状を和らげたりすることは大切です。
でも、身体に触れる仕事をしていると、
「この身体は、なぜ今こうなっているんだろう?」
と思うことがあります。
身体の反応には、その身体なりの理由があるのかもしれない。
だったら、
「これは悪いからなくそう」
とすぐに介入する前に、
身体が何を伝えたいのかを見てあげる。
そんな時間があってもいいと思うんです。
「治す側」と「治される側」
以前の私は、
「どうしたら、良くできるだろう?」
と考えていました。
セラピストなんだから、当然ですよね(笑)
でも、この考え方には、
「治すわたし」と「治される相手」
という関係があります。
わたしが知っていて、
相手は知らない。
わたしが治して、
相手は治してもらう。
でも、本当にそうなんだろうか?
と思うようになりました。
身体の中で起きていることを、
わたしはすべて知っているわけではありません。
その人が何を感じているのかも、
その人以上には分かりません。
そして、その人の人生を生きることもできません。
わたしは、
その人を「治す人」ではなくてもいいのかもしれない。
と思ったんです。
身体が変わるための環境をつくる
今のわたしは、
「どうやって身体を変えよう?」より、
「この身体が安心して変化できる環境は、どうしたら生まれるだろう?」
と考えるようになりました。
無理に緩めない。
無理に動かさない。
こちらが思う「正しい身体」にしようとしない。
まず触れて、
感じて、
待ってみる。
すると、ときどき身体が、
こちらが予想していなかった方向へ変化していくことがあります。
それを見ると、
「ああ、身体はちゃんと感じているんだな」
と思います。
答えを渡すのではなく、一緒に見つける
これは、心についても同じです。
誰かが悩んでいると、
「こう考えればいいよ」
「こうしたほうがいいよ」
つい答えを教えたくなります。
でも、その答えが、
その人自身から出てきたものではなかったら、
本当にその人の答えなのでしょうか。
わたしは、
答えを渡す人より、その人自身が答えを見つけられる場所をつくる人でありたい。
と思っています。
だから、すぐには答えを言わないこともあります。
問いを投げかけるだけのこともあります。
何も起こらないように見える時間もあります。
でも、
その「何もしていないように見える時間」の中で、
その人自身が何かに気づくことがあります。
「何もしない」と「何もできない」は違う
ここは、とても大切なところです。
「治さない」というのは、放っておくという意味ではありません。
必要なときには、必要なことをする。
助けが必要なら、助ける。
身体に介入する必要があるなら、介入する。
ただ、
「わたしが何とかしなければ」
というところから動かない。
今、本当に必要なのは何なのか。
触れることなのか。
動かすことなのか。
話すことなのか。
待つことなのか。
それを、その人や身体と一緒に見ていく。
だから「何もしない」のではなく、
必要以上にしない。
というほうが近いかもしれません。
「治さない」という関わり方
わたしは、相手を治すことはできない。
でも、
身体が安心して変化できる場所をつくることはできる。
必要なときに手を差し出すこともできる。
そして、
その人自身の身体が持っている力を、
邪魔しないこともできる。
「私が治す」ではなく、
「その人の中で起きる変化を信頼する」
ということ。
わたしにとって、
「治さない」
とは、そういう関わり方なのだと思います。
相手を変えようとしない。
身体をこちらの正解に当てはめない。
でも、何もしないわけでもない。
触れて、
感じて、
必要なら手を差し出して、
そして待つ。
変化する力は、その人の中にある。
わたしは、その力が働ける場所をつくる。
今は、そんなセラピストでありたいと思っています。