わたしはキリスト教徒ではありませんが、ここ最近キリストの教えで全く同じお話を目にすることが多かったです。
今回はそのお話をご紹介したいと思います。
姦通の女
イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
(ヨハネによる福音書 8章1節~11節)
※姦通とは「社会的・道徳的に容認されない不貞行為・性交渉のこと」、律法とは簡単に言ってしまえばモーセの十戒です。律法学者とはモーセの十戒を研究している学者ということになります。
このお話でのキリストは民衆に対して姦通の女に罰を与えることを許しています。
石を投げて女を殺すも、やめるのも自由である。
でも考えても見なさい。罪を犯したことがない完璧な人間はいるでしょうか?と。
わたしも同じことを考えているので、聴かれたら(ここ、重要です)その人にとって建設的な意見をいいますが、人のダメ出しや人を責める行為は極力しないように心がけています。
でも心がけていても、キリスト様ではないので出来ないこともありますよね。
凡人なので(笑)
8割方出来ていればいいほうかなとゆるく意識するようにしています。
世の中は迷惑のかけあいです。
自分も完璧ではなく、迷惑をかけてきている人生ですから、そんなわたしが誰かを責めることがどうしてできるのでしょうか?
自分の正義を振りかざし誰かしらを責めまくっている人を見かけることもありますが「あなたは他のところで迷惑をかけていないのでしょうか?」と思うことが多々あります。
そして、誰かを責める人生は、誰かから責められる人生を選択するということです。
自分が責めることはOKなのに、誰かに責められることはNGなんて、筋が通っていませんよね。誰かから責められたくないのなら、まずは自分が人を責めないことです。
完璧な人間などいない。
もちろん自分だって完璧ではない。
そう心から思えた時、責めることをしなくなり、
人を許すことができるようになるのでしょう。
そして、大切なのは過ぎ去った過去ではなく、「これからどうするか?」です。
キリスト様も姦通の女に罰を与えず、「これからは、もう罪を犯してはならないよ」と声をかけつつも、どこへでも行っていいよと自由を与えています。
罰を与えても意味がありません。
「これから私はどうしていけばいいのだろうか?」
人がそう思えるようになるのは誰かから自由(愛)を与えられたときではないかなと思うのでした。