自分にとっての一番の先生は自分です

今回はちょっと前に体感で築き上げられていった価値観の一つを書こうと思います。

現時点で確立した価値観でもあるのですが、今後何か学びや気づきがあって価値観が変わることも当然ありますので、現時点でのものです。

ちょっと難しい話になってしまうのでいまいちピンと来ない人もいるかとは思いますが、正しいとか間違っているとかはどうでもよく、「わたしはそう思っています」というだけの話なので、そう読んでいただければ嬉しいです。今回はかなり長文となりますのでご了承ください。

自分にとっての一番の先生は自分自身

自分が生まれ変わりたいときに、先生やメンターなんて本当は必要ありません。なぜなら、自分にとっての一番の先生は自分だからです。

でも、多くの人はそのことに気づきません。
何とか自分を変えたいと思い、他者へ救いを求めたり、方法を学ぼうと必死になります。

それは本人が気づいていないからそうなってしまうと言ってもいいのかもしれません。気づいた時点できっと誰かから学ぶ必要なんてないのだとわかるようになります。

自分の弱点やこれからの課題を教えてくれるのは自分が相手に思ったことや発した言葉なのだと気づくことが出来たら、誰かの教えを頼りにする必要はなくなります。

自分の課題を見つけ出し、そこから自分をデザイニングしていけばいいだけです。

わたしはそのことを知っているけれど、知らない世界を知るのが好きだからという理由と、援助者の仕事もしているので方便やより多くの価値観や知識を増やしたいという目的で様々なセミナーや勉強会に参加しています。

でも、基本は「自分が先生だよ」というスタンスです。

わたしの今の課題は「本当の愛」「本当の信頼」

わたしもいま新しい課題を見つけ出し、皆さんと同じように奮闘しています。
その課題とは「本当の愛」とか「本当の信頼」です。

わたしは自分で言うのも何ですが、基本穏やかで平和主義でかなりキャパが広い人間です。でも唯一とある扱いをされると必ずといっていいほど心のシャッターを閉ざしてしてしまいます。

それは「自分が信頼されていないとわかったとき」です。

信頼とは一回でなくならないと個人的には思っているのですが(わたしのキャパも相当広いので)例えば自分や自分が大切にしているものを大切にされていないと感じたり、幾度も感謝が感じられないと思わせるような態度をされたり、幾度も礼を尽くしても相手からは礼を感じ取れなかったり等(もちろんこれは主観です)

相手の言葉や態度について度重なる違和感が積み重なって、最終的に「相手から信頼されていない」と気づかされてシャッターを静かに下ろす感じです。

わたしは「その人の根底にあるもの」「抱えているもの」みたいなものが自然と感じとってしまうこともあり、さらに観察力もあるものですから、本人の無意識レベルで思っていることも些細な行動や言葉から読み取ってしまいます。

「本当は信頼されていない」

それがわかると、とてつもなくガッカリしてしまいます。
嫌いになるというより、完全に諦めてしまう感じになるのです。

信頼関係というのは経験上、会った回数じゃないし、時間もあまり関係ないと個人的には思っているので、この時点で信頼関係が崩れているのなら今後も無理だなと思ってしまいます。

それが初対面の段階なら相性が合わなかったということで関わりを発展することはないでしょうが、時間をかけて積み重ねてきたものがあったとしたら尚更ショックを受けてしまうのです。

「一緒の世界にはいられないのだ。境界を踏み込むとか疑うようにまでになってしまったのならそれなら別々の世界でお互いに幸せになりましょう」と、潔く離れてしまいます。

自分にはそう思う癖や生き方のパターンがあるんですね。

でも、信頼されていないことに対してものすごくショックを受けたり、拒否反応を起こすのは、自分にもその要素が色濃くあるからでもあります。

「自分が相手を信頼できない」とか「自分は信頼するに値しない」とか何かしら信頼に関する課題(=自分を信頼できていないことが根本です)が自分では気づいていないけれど、わたしの中にあるのです。(文章化しているということは今は気づいています)

相手から信頼されなければ、もう関わらないほうがいいというのはある意味正解でもありますが、ある意味では間違ってもいます。
なぜなら、条件付きの付き合いだからです。

だから、自分が自分の課題を教えてくれるってホント当たっています(苦笑)

自分の抱えている課題を理解すること、そんな自分を認めてあげることが一番必要なこと

でも、課題をいざ見つけた時にそれを「治そう!」と思って意気込んでも、治すことができないでしょう。まずは、そんな要素も自分は持ち合わせているのだと認めてあげることが一番必要なことなんじゃないかなと思います。

自分にもそういう要素があるからこそ、「自分や相手を信頼する」ように努めることができるからです。

自分のそういう一見ネガティブな部分を認めてあげ、理解してあげることで、繰り返し同じような過ちを犯さないとか、予防をすることだってできるのです。決して悪者ではないのです。

本当の信頼とか、本当の愛とか、そんなものはいらないという人は別に気にしなくてもいいのですが、わたし(魂)はどうやらそれを学びたいと思っているようなのです。

それが今後のわたしの課題なんですが、とても難しくて、もがいています(笑)

かなり自分や他者に対して信頼は強いほうですが、まだまだ自分を信頼しきれていない自分が居たか!という感じです。

まぁ、それも楽しいといったら楽しいですし、最近気づいたことなのですぐにどうにかなるなんて思っていません。自分で気づけるだけでも本当はすごいことです。

気負わずに今以上に自分や他者のことを信頼できる自分になれたらいいなぁ~と思います。

嫌いなものから本当の自分を見出していく

わたしの例えを紹介しましたが、要するに言いたいことは

「ネガティブな感情になったとき、不快に感じたとき、嫌いなもの、苦手意識が強いもの、なぜかわからないけど嫌」という感情や感覚に自分のこれからの課題と希望があるのです。

誰かに対して不快になる数が多ければ多いほど、自分の中に問題(課題)はあるということ。ポジティブな言い方をすれば、それだけ伸びしろがあると言い換えることができます。

そして、それらに自分で気づいていくことができたら、この問題はそのままでいいとか、この問題は少し変えていきたいとか、自分でどうしていくかを考えながら選びとり、自分をデザイニングできるということです。

でも、簡単に書いていますがとても難しい。

人は自分にそんなネガティブなものを持っているなんて思いたくもないし、自分が苦しくなるので認めることができないのが一般的かもしれません。

だから、このことに気づける人が少ないし、自分が現実逃避するために気づこうとしない場合もあるでしょう。

わたしは割と簡単に苦しまずに自分と向き合える人間であることと、メタ認知能力が高いので自分で気づくことが出来ます。こうやって自分の課題をブログに飄々と書く事ができます。

でもそれは、そんな自分も自分なんだと思えるから。素直で自己受容力が高いからです。

きっと子供の頃から困難が多い人生を送ってきたことで、それらを素直に受け取り、訓練されているからかもしれません。

よくわたしは色々な人から光のような人間、又は光側の人間と言われます。
自分でもどちらかと言われたら、そちらの部類に入るとは思っています。

でもそれは、わたしが真っ暗な闇の部分をしっかり理解しているからだし、それだけ闇の部分を持ち合わせているからだと思うのです。

真っ暗な闇だからこそ、光が強く見えるのですね。

その闇とは、人生で経験してきた困難の多さや幼少の頃から人間の真っ黒な部分をたくさん見てきたり、聞いたり、体感してきたからでしょう。

光と闇、
正と負、
善と悪、
男性(性)と女性(性)

など

人間の世界ではこれらを二極思考で物事を分ける思考癖がついています。

だけれども、全ては対極のように見えるだけで、対で一つです。
そう考えられるようになっていくこと、その考え方に慣れていくことがこれからの時代は必要になってくるのでは、と思います。

相手への見方は相手だけのものではなく、自分の中にもあるもの。

「どちらも持ち合わせている」

そう思えるようになると自分(魂)が急速に成長できるようになるのだと思います。

この話、言っていることが伝わらない、ピンとこない人がいるでしょう。
言い方は悪くなってしまうかもしれませんが、一部の人にしかわからない、かなり高度な話をしていると思います。

たぶんそちらのほうが多いと思いますが、今のわたしの価値観を今のわたしの言葉でこれからも発信していきたいと思います。

伝わった人にはご参考になったり、お役に立てたら幸いです。

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