失うことを教えることは最上の愛のカタチなのだと思う

今のわたしはどうやら「自分と向き合わない人・逃げ続けて生きている人」とは一緒にいられないらしい。「自分の人生を諦めている人」「自分の人生を蔑ろにするような人」はやっぱり好きではない。

たまに会うくらいなら別にかまわないけど、近しいところにそういった人がいるとその人とは距離ができてしまう。

自分の作り上げた幻想の代表ともいえる

「自分に自信がない」
「自分のことが嫌い」
「自分は孤独だ」

など

そりゃ、誰にだって多かれ少なかれそういうものはあるだろうけど、自分を奮い立たせることをせず、諦めて努力もせず、自分の人生なんてこんなもんでいいと思っている人が好きじゃないのだ。

その状態にし続けてきたのは、いったい誰なのか?
自分ではないか。

 

「自分は自信がないけれども、いつか自信が持てるようになりたい」
「自分のことが嫌いだけれども、いつかそんな自分を好きになりたい」

現状はどうであれ、そうやって、少しずつでもいいから、
本来の自分を取り戻して、幸せに生きていきたいと

がんばっている人が好き。
そういう人を応援したい。

プライベートもそういう人と付き合っていきたい。

きっとわたし自身が「自分から逃げずに生きていく」と決めているというのもあるだろう。

 

失うことを教えることは最上の愛のカタチなのだと思う

少々与え続けることに疲れてしまい、休憩することにした。

与えること、受け取ることをしない人に与え続けているのは、本当の愛じゃないと思うから。

やはり【与える】と【受け取る】は両方バランスよく出来なければいけないなと思う今日この頃。

 

電車に乗っているときに、ふとマザーテレサの言葉「与え続けなさい」が頭に浮かんだ。

「与え続けるって、なんて大変なんだろう。わたしは聖人にはなれん。」

なぜか与え続けることができなかった自分を責めたり、自分の実力がないのかなどと考える。自分の問題ではないとわかっているのに。

真剣に向き合わない人に対して、こちらだけが真剣に向き合って考えていて
客観視して自分を俯瞰して見ては自分ってアホだなと思ってしまう。

 

マザーテレサの言葉を検索したら、正確には

「気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。」

であった。

 

あ、わたしやっぱり間違ってなかったんだ。
心が軽くなった。

「最良のものを与えること」

何でも与えろとは言っていないのだ。

 

与えないことが最良だと思ったから「もうやめよう。自分と相手のためにも」と休憩したいと思った。

与えないという最良のものを相手に与えることができているんだ。

それが届くかどうかは相手の問題なんだよね。

逃げ続けるか、向き合うか。
それだけのこと。

 

わたしは自分さえよければ、相手のことを考えなくていい・合わせなくていいなんて思えない。相手の幸せが自分の幸せだからだ。

だから自分から与えることは当たり前だと思ってる。

 

自分に自信がない人間は失敗を恐れ、相手の評価を気にし、能動的に動くことを怖がり、そして、どんどん受け身となっていく。

自分が何かをして嫌われたらと思うと怖くてできなくなる。
どんどん動かなくなり、与えられるのを待つようになる。

相手が与え続け、それが当たり前になると与えることをしなくなる。
相手が与えてくれるかどうかで、自分は愛されているのかどうかを判断する。

与えなくなるから、だから上手くいかなくなる。
積極的に人を愛しにいこうという姿勢がなくなるからだ。

本当は愛がほしいくせに、愛を遠ざける態度をし続ける。
だから愛がいつまで経っても手に入らない。

それをいつまでもいつまでも繰り返していく。

自分を変えたいという勇気をもたない限り、その孤独も続く。

かっこわりぃなぁ。
愛が欲しければ、与えられる人間になれよ。

 

少なからず、わたしは今まで愛の選択が出来ていたのだと思う。
自分で気がついて軌道修正をした自分を褒めてあげたい。

家族や恋人、友人など関係なく

失うことを教えることは最上の愛のカタチなのだと思う。

少なからず、わたしの中ではそうなのだ。

今まで家族や友人などこちらから縁を切ったとき「失うことを教えるのがわたしの役目なんだ」と思いながら、いつも縁切りしていたりする。

その逆でわたしの息子がいなくなったとき、父が亡くなったとき、
最上の愛をいただいたと思った。

その愛を無意味なものにしたくなかった。

わたしがまた何か失うことがあったとしたら、
絶対に無意味なものにはしない。

 

そんなことを考えた日でした。

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