気づいたこと、感じたこと(2022.01.11〜01.19)

近日の気づいたこと、感じたことのまとめ。
誰かの参考になるかもしれないのでブログ記事にまとめています。必要な部分があれば、受け取ってくださると幸いです。

目次

1月11日11:11について思ったこと

先日1月11日の日に思ったのですが忙しすぎてすっかり忘れていて、本日また思い出したので自分の考察・気づきとして書いておきます。見る人によっては不快になるかもしれません。

まずはTwitterでつぶやいたのはこちら。

ぴかりん

1月11日11:11に画像を撮って盛り上がっている人が周りにたくさんいたのですが、わたしは母のお世話をする日でその日は必死にやってますから思い出す余裕がなかったわけ。

で、帰宅の際に色んな人がアップしているのを見て気づいたのですが、その時に思ったことがあって。

昔のわたしだったらそういうイベントごとは愉しんだかもしれないけれど今のわたしはこう思った。

「今ここを大切に生きる」という視点に立てば、11:11に待機して画像を保存することに時間を使っているより、そんなことは見向きもせず必死に誰かのサポートをしている「今ここ」があったわけなので

画像を撮って盛り上がるのもいいけど、それよりもその時間を必死に何かのために使っている方がこの先は良くなると思ったのです。

だから、正直周りの人よりわたしの方が結果として現れてくるだろうなと。

そんなふうなことを思ったというだけの話。 画像を撮って盛り上がっている人を非難しているわけではありません。

この日はスピリチュアル的に!?1年で最もパワーが溢れる日と言われていた。
エンジェルナンバー『1111』1がいくつも並びゾロ目ということで何だか周りは盛り上がりっていた。
画像を撮るために待機していた人もいるようだ。

わたしもこういったイベントは嫌いではないけれど、さすがにエンジェルナンバーを待機しているって自分はやらないなと😅

こういうのはふと見た時に『1111』だから、そのシンクロで「メッセージが来たな〜」と思うのであって、待機している時点でシンクロではないだろうと個人的には考えています。

で、今回はわたしは母のお世話をしていて、1月11日であることもすっかり忘れていたし、目の前のことに一生懸命だったので1ミリも思い出すことがなかったわけです。

帰宅時にSNSを開いたら思った以上に画像に残して盛り上がっている人たちがいて、それで「そういえば1月11日だったんだな」と思い出した。

そのときにその画像を撮っている人たちの現象と自分のことを俯瞰してみた時に上記のことを思ったわけ。

こういったイベントに盛り上がったり、験担ぎ的な意味合いで画像を撮ることは別にいいとは思うのですが、

行動として見たときに『今ここ』が「画像を撮ることに待機している時間」(その間は何もしていないのでは?なんて思ったりするのだが)と「何かのために必死に行動していた時間」ではその先の未来が大きく変わってくるのではないかと思ったのです。

よくよく考えると験担ぎ的に「画像を撮るために待機している時間」は『今ここ』ではないような気もする。
未来にいいことがあるように、発展しますようにと意識が未来に飛んでいるのではなかろうか。

その点、忘れるくらい必死に何かに取り組んでいる時間は『今ここ』である。

『今ここ』の連続が未来に繋がるのであれば、当然のことながら画像を撮って盛り上がっている人たちよりも『今ここ』を大事に生きている人たちの方が『今ここ』の結果として未来に反映されてくるだろう。わたしはそう考えました。

要するに画像を撮るから運が拓けるとか、気分がその時だけは上がるようなこと(そういう上っ面の部分に引っ張られて)本当にやるべきことをやらないとか、やっていないという部分にいかに自分から目を向けれるかどうかが未来を変えていくポイントなのだと思う。

こういう細かいところから自分で気づいていき、行動を変えていくか。
塵も積もれば山となって、自分の未来が変わっていく。

人間は都合のいいように自分を騙す。
そのことを忘れないようにしよう。

向き合うも、手放すも、内観も意味を持たなくなる

2つ目もTwitterから。
流れてきたツイートから自分の体験的にも「確かにそうかも」と思ったもの。

わたしも理解が進むにつれて、向き合うとか、手放すとか、内観とか、あまりやらなくなっていったなぁと思う。

だからといって反省しないとか、そういうのではない(笑)

必要な向き合い、手放し、内観がわかってくるというか
それ以上のこと無駄な向き合い、手放し、内観はしなくなる。

量より質。ピンポイント。
そんな感じなのかもしれない。

先ほど上記の記事でも『今ここ』と書いたが、
まさに『今ここで起こっていること』を見て、必要な向き合い、手放し、内観をするような感じ。

自分で変な予測をたてて(自分の捉え方のみで判断し)起こってもいないことに
向き合わない、手放しをしない、内観もしなくなる。

それに文章のとおり、全体の中で起きていることを完全に理解すると
全て意味を持たなくなる。

これは体感した人にしかわからない感覚だろうし、文章にはできない。
それぞれが自分で体感していくしかない。

以上、近日の気づきでした。

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