【お知らせ】カンタン!はじめての東洋思想①『陰陽論』セミナーのアーカイブ販売受付中詳細をみる

わたしの一番どデカい人生の課題『自己信頼』

皆さん、こんにちは。
メンタルコーチのアンザイ ヒカルです。

今回はわたしの成長ブログを書こうと思います。
個人のことを書きますが、何かしらの参考として受け取ってくれたら幸いです。


わたしの大きな壁・課題はやはり『信頼』昔から信頼されていない発言や態度をされると傷ついて一気にシャッターを閉じる癖がありました。 数年前にそれに気づき始めましたが、その記憶すらも思い当たることが浮かばない。

きっと、潜在意識の奥の奥にあるのだろう。
幼少の頃の記憶かもしれないし、過去世の出来事かもしれない。それはどちらかはわからない。

でも、この課題は今世最大の課題だと自分でもわかっています。

自己信頼を試される出来事が起こる

昨日も久しぶりに『信頼』に関するイベントが起きました。

こんなに声を荒げたのは4、5年ぶりくらいだろうか。
自他認めるくらい仏のわたしが「ふざけるんじゃねぇ」とガチで母親と言い合いをし、お互いに泣いて叫びあった。母親とはこのようなことは人生で2度目だ。

別に感情に振り回されるわけではなく、怒りという表現を使って相手に勇気づけをしたと言ってもいいだろう。

傾聴の姿勢で話を聞くことも出来たが、聴いている途中から「ちゃんと言った方がいいことは伝える」モードになったのだった。綺麗な言葉で話し合いをすることも出来たが、今回は魂のぶつかり合いをしたかったからだ。

自分は怒りの解放が出来ている人間であること(怒ってもいいと知っている)&相手を信頼しているので怒りを出せるんですね。頭はとても冷静で心は熱くぶつかった感じ。

言い合いの内容は簡単に言うと母のお世話を一生懸命にやっているのだが母の精神状態が良くない状態だったので、わたしに意見をされることが気に入らなく「私を見放す」「誰も助けてくれない」「死にたい」だの言い始めたからだった。

普通なら傾聴の姿勢で聞くのが良いと言われる。
それは私もカウンセリングをしているのでわかってはいるが家族関係である場合、傾聴ばかりになるのは態度として「家族」としての態度ではないと思うので自然と振る舞うようにしている。今まで普通に言いたいことを言ってきた関係性が突然病気になったからと態度を一気に変える方が不自然で逆に信頼関係を欠くと考えたからだった。

だから今は傾聴の姿勢は持ちつつも、娘としての意見はしっかり伝えている。
こちらにもわたしの人生がある。

全てを母に合わせてしまったら私の人生ではなくなるからだ。

最終的には言葉の綺麗さは関係ない。
心から発しているエネルギーがいかに純粋かというところに尽きる。

それを知っているから、こういう態度でも相手に伝わるのだと信じている。

「これだけお世話しているのに、相手に対して「見放す」と言ったり、「助けてくれない」ってそんな酷いことを言って本当にいいの?お母さんがわたしに対して酷いことを言ってもすぐ忘れてしまうからそちらはいいだろう。でも言われた私はずっと覚えてるんだよ!」

途中から母は「ごめんなさい」モードになって反省したようだった。
でも、そのこともきっと忘れてしまうだろうし、二人で言い合いしたことも忘れてしまうだろう。

ただ、出来事は忘れてしまっても心でやりとりしたことはきっと覚えていると思うので、今回自分が怒りを使ってコミュニケーションしたことはとてもよかったと個人的には思っている。

自己信頼が高くなっていく自分に気づく

結局お互いに言いたいことをいってその日は終わったのだが、その日の夜お風呂に入っているときに「今回わたしが怒ったのも信頼に関することだったなぁ」と思い返していた。

自分が信頼されていないようなイベントが起こるたびに最初は傷ついていたが、この自己信頼が今世の自分の大きな課題であることに気づき、回を重ねるにつれて少しずつ傷つく度合いも減っていく。それはわたしの潜在意識にある部分が徐々に癒されていっているからだろう。

自己信頼を失う記憶・きっかけになった記憶はわからないけれど、イベントが起こるたびに何かしらに気づきがあると、年数はかかるが徐々に癒されていく。実体験でそう思う。

今回終わった後に気づいたことは自分に対しての自己信頼度が上がっているということだった。

相手から信頼されていようがいまいが自分がやりたいからやっていれば気にならない。

例えば今回に当てはめると母が「見放す」「助けてくれない」とわたしに対して言い放ったとしても、自分が自分を信頼して事を成していれば頭にこない。勝手に言ってろ状態になるはずだ。

相手に何を言われようが信頼されていなくても、やりたいからやっているでいいのだ。


今回の自分を後に観察してみると感情的にならずに怒りを使ってコミュニケーションを出来た時点で自己信頼が上がってきているのだなとわかったのだ。ただ、言い合いをしているときに涙が溢れてきたということはまだ少し「わかってほしい」という悲しみや自分はそう見られていたというショックなど色んな感情があったのだと思う。(相手も悪気があって言ってるのではないのはわかっているんだけどね)

ただ、それをどう見るかがとても重要で「自分はまだ癒されていない⤵️」と落ち込むか、
「前よりも自己信頼がアップした。徐々に癒されてきているのだな⤴️」と自分を勇気づけして励ますかのどちらを選択するか。

わたしはもちろん後者だが、そのような物の見方で今後の癒され具合が変わってしまう。

「癒されていない」と思えば、癒されていない現実になる。
「癒された」と思えば、癒された現実になる。

とてもシンプルだ。


「わかってもらわなくてもいい」
「どんなふうに見られようが自分がやりたいからやっている」

わたしがやりたいからやっている。
ただ、それだけなのだ。

今回はそのことに再度気づかせてもらった出来事だった。

これまでの自分の成長具合や今回の自分を観察し「完全な自己信頼まであともう少しだ」という感覚がある。
「必ずクリア出来る!」という大きな確信を得た日でした。

人間だから感情に振り回されず怒りを使えるだけでも立派だと思うし、人間的にはそれで十分だとは思うのだが(笑)
わたしの魂はやはり高次を目指しているのだなと思う。

それはどの魂も同じで「純粋に高次を目指す」ってある意味、自分の魂(本来の自分)に還っている証でもあるように思う。

そんな大きな事を気づかせてもらえたいい出来事だった。
なかなか母とも口論したこともなかったし、すべてはいい経験だね😃

この日の夜、いただいたバレンタインのプレゼントで癒されました♪
ありがとうございました✨🙏✨

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次