自己否定できない人間は、自己受容できるはずもない

こころとカラダのセラピスト/認知症リハビリテーション専門士のアンザイ ヒカルです。

今回はインスタのストーリーでも流したことをブログにまとめてみます。

自己否定できない人間は、自己受容できるはずもない

自己受容できる人は自己否定がしっかりできる人です。

だからわたしは「自己否定して反省しろ!」とよく言います。

今まで行ってきた考え方や行いが今の現実の結果であるならば、それを本当に変えたいのであればこれまでの自分の考え方や行いなど心から反省し変えていかないと逆転しないからです。

心から反省するからこそ、人は本当の『感謝』という念がわいてきます。

これが出来たとき、人は奇跡と言われるものが起こります(本当は奇跡でもなんでもないのですが)

母が認知症改善しているのも実はコレです。

母は認知症改善していく中で自分が間違った生き方をしてきたこと、両親や親族にどのように教育されてきたか、自分の嫌な部分と向き合ってきました。

随分発狂し、泣いてきましたよ。

わたしはそれに対して慰めることはありませんでしたし、考え方のヒントは与えてもすぐに教えてくれという態度を見るや否や「自分で限界まで考えなさい」とある意味突き放してしまいます。

なぜなら、これをしないと認知症は改善しないとわかっているからです。

これまで自分自身について考えてこなかった、他人に縋ってすぐに答えが欲しいと生きてきた。
だから認知症になったのです。

内心では(泣いて苦しんだ分こちらの勝ち!)くらいに思っていましたし、いまでもわたしの考え方はそのような考え方です。

一般的に「優しい」「寄り添う」と言われる行為によって、治療が滞る・改善できないことがあるのです。


世の中で流行っているポジティブな側面ばかりをみて、自己肯定感をあげるような手法や「人生を変えていきましょう!」「性格を変える!」「潜在意識を変える!」というのは、ある地点で限界をむかえて進化・成長が止まります。

ポジティブな側面を見れるように訓練したほうがいいのは、その先にあるダメな自分と向き合うために自分で勇気づけできないと話にならないからです。

ポジティブな言葉や考え方を用いることによって、一時的にはその人の人生がより良くなる時期も当然あるのですが、ポジティブな言葉や考え方ばかりを採用し続けていると、あるときから一気に自分の足を引っ張ることになります。

そして本当は自己受容できておらず(しかもそれを本人が気づいておらず)自己受容できていると思い込んでいる、自己受容できている風の人間を演じる人になっていきます。

「自己正当化」や「自己欺瞞」を行いながら、自分に都合が悪い選択肢は排除していき、迷い続けることになります。
そして進化・成長が止まります。(別にしたくない方はそちらを選んでもいいですが)


以前、瀬戸内寂聴さんの『釈迦』という小説を読んだとき、釈迦という人物が後悔と懺悔のかたまりのような人間として描かれておりました。
とても人間くさく、これまでの神格化された釈迦像をぶち壊してくれたことを思い出します。

それを読んでから2年経ちましたが、母の認知症改善を通して精神や身体についてより深く学んできて「懺悔してきたからこそ釈迦なのだ」ということが腑に落ちたのです。

それと同時に釈迦という人間をこのように表現されたのは、寂聴さん自身が自己受容されていたからこそ、このような表現になったのだなと知ることができました。(腑に落ちた状態でまたもう一度読もうと思います)


さて、インスタストーリーで流したらそれを見た仲間から「ゾルバ・ザ・ブッダですね」と教えていただきました。初めて聞いた言葉でしたがOshoの言葉のようです。

今回の記事にも関連するとても大切なことが書いてありますので、皆さんにも知っていただきたく引用させていただきます。

ゾルバが基礎で仏陀が宮殿

ゾルバが基礎で仏陀が宮殿だ。仏陀が頂点だが、基礎の石はゾルバによって敷かれる。礎石を敷かずに仏陀であることを選ぶのはばかげている。

私にはそのことについて明確な見通しがある。ゾルバがなくてはならないし、ゾルバが強ければ強いほど、よりよい仏陀が可能になる。

だから私はいつでも仏陀になれるが、そこから仏陀を刻み上げる基本的エネルギーとしてのゾルバがどうしても必要なのだ。ゾルバは仏像を彫り出すための大理石だ。私は岩を選ぶ……そして仏陀は簡単だ。

たんに目を開ければいいだけの話だ。私は仏陀のことは気にかけていない。私はゾルバではない人たちのことを心配している。彼らはどうやって仏陀になるのか? 彼らは仏陀をつくるための基本的材料をもっていない。

そしてこの貧しさは、私たちの宗教的指導者たちによって人びとに与えられたものだ。彼らは物質主義者ではいけないと言ってきた。彼らは禁欲的であれと言ってきた。彼らは貧しさのなかに生きよと言ってきた。

彼らは生は罪から生まれたと言ってきた。こうしたすべてのことが彼らのゾルバを殺してしまった。そうでなければ、だれもが生まれながらに「その男ゾルバ」、ギリシア人のゾルバなのだ。

そしてすべてが私の思いどおりにいけば、どんな人もゾルバ・ザ・ブッダとして死ぬだろう。このギリシア人と仏陀のあいだにそれほど距離はないが、あなたはまずこのギリシア人にならなければいけない。

Osho, The Last Testament, Vol. 2,  #19 より抜粋

私はその新しい人間を「ゾルバ・ザ・ブッダ」と呼んだ

最初、私はあなた方に信頼、ハート、感性、愛を教えた。

そして今、私があなた方に疑い、懐疑、理性、知性を教えているのは、あなた方に全体的な人間になってほしいからだ。あなたは信頼することで、ハートで完全に満足できるが、それではあなたは全体的な人間ではない。

私はミラを全体的な人間とは呼びたくない、私はラーマクリシュナを全体的な人間とは呼びたくない。

彼らは美しいが、知性が欠けている。ただハートだけなのだ。砂糖が多すぎて、糖尿病になってしまう。私は糖尿病だ。ハートが多すぎたら、甘みが多すぎたら、あなたは糖尿病に苦しめられる――そして、私はあなた方のだれかが糖尿病で苦しんでほしくない。

そう、ただハートだけで生きるなら、あなたは精神的な糖尿病になる。知性は塩辛く、刺激的だ。ただ甘いだけのものではない。

私はあなたに自分の存在の全体性を楽しんでほしい、あなたの肉体、あなたのハート、あなたの知性、そのすべてが調和した全体性を。私はその新しい人間を「ゾルバ・ザ・ブッダ」と呼んだ。

Osho, From Personality to Individuality, #13 より抜粋

ゾルバは始まりにすぎない

私はこのゾルバという人がみんなのなかに生きていてほしい、というのも、それはあなた方が自然に受け継いだものだからだ。しかし、ゾルバで止まるべきではない。

ゾルバは始まりにすぎない。遅かれ早かれ、ゾルバに全面的な表現を許したなら、あなたは必ずもっとよいもの、もっと高いもの、もっと偉大なことを考えるようになるだろう。それは思考からは生まれてこない。それはあなたの経験から生まれてくる――なぜなら、そうした小さな経験は退屈なものになるからだ。

仏陀その人が仏陀になったのは、 彼がゾルバの生を生きたからだ。

Osho, Beyond Enlightenment, #7 より抜粋

多くの人は光を求めますが、闇あっての光です。
闇が濃ければ、光も強くなる。

自分の中にある闇の部分をしっかり見ない人間は、それ相応の光しか見ることが出来ない。

別の言葉で『陰きわまりて陽となす』です。

その原則を本当に理解しているのであるならば、肯定の言葉ばかり与えることがその人のためにならないことくらいわかります。

真の治療家を目指すのであれば、与える行為が相手にとって毒にもなることも知らなければいけないと思います。

次回はそのことについてブログを書いてみたいと思います。

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