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『感受』ができないと人生迷い続ける

皆さん、こんばんは。
いのちの力を引き出すセラピスト/認知症リハビリテーション専門士のアンザイ ヒカルです。

あまり更新されないブログですが、久しぶりに「この話題は書きたい!面白い」と思ったのでブログを書いていきます。

わたしのブログは結構マニアックな話題が多いので理解できる人はたぶん限られてしまうかもしれませんが、自分の記録用にも残しておきます。

さて、今回のテーマは仏教の『五蘊』と『無明』、そしてカラダの関連性についてなどを書いていきます。

五蘊とは何か

仏教で五蘊(ゴウン)という仏教用語がある。経典のなかでも頻繁に使われている言葉であり、仏教が考える《色・受・想・行・識》は人間の構成要素の基本となっています。

簡単な説明は以下のとおり。

→物体。物質すべて。身体。
(雨が降ってきて *雨と身体の物体同士がぶつかる

→感受。感覚器官に触れたもの。感じる。『色』を受けとり感受する。
(雨がポツンとあたり *何かが当たったと思う

→表象。『受』をうけてイメージ変換・想念が働く
(雨であることに気づく *当たったものの感触や温度などをイメージして

→意志。『想』に対して意志が生まれる。ああしたい、こうしたいという意志。
(雨に濡れたくない!と思い走って帰る *〜したいという意志

→認識。経験や体験によって増殖していく認識や価値観などを「識」と呼ぶ。
(急に雨に降られてしまったので今度は傘を持って行こう(雨の日のいい思い出や悪い思い出などの記憶など蓄積)

これらの一連の精神作用(認識過程)が『五蘊』という言葉の意味するところである。

※全ての説明はここではしないのでわかりやすい解説ブログのリンクを貼っておきますのでどうぞお読みください

無明とは『感受』ができないこと

そしてもう一つ『無明』という言葉がある。

『無明』とは根源的な無知のこと。迷いや煩悩によって悟りを得られない様のことを言います。

無明(サンスクリット語:a-vidya)
「a」は否定、「vidya」は五蘊の2番目『受(vedana)』である。

要するに『無明』になってしまうきっかけは《身体の感受ができないことである》と言っていいように思う。

感受がなくなれば、それ以降の認識も起きず、真っ暗闇の世界で生きることでもある。

実際に『受』が健全に出来ないと、その後の『想・行・識』の受け取り方が狂っていく。

先日、スタエフラジオでも配信した『感覚統合』につながる話である。(アカウントなしでも聞けます)

そして『無明』の状態になってしまうということである。感受ができないと人生に迷い続ける。

「”感じること”で人生は変わる!」ともよく言われるが、それらにも通ずる話である。

『受』というのは、身体の内外をありのままに受けとる力であり《カラダの智慧》でもある。

現代人はこの『受』=カラダで感じることが出来ていない。迷いや煩悩の世界にどっぷりと浸かる状態となると言っていい。

やはり仏教は本質を突いてくるなぁと改めて感心する。


多くの人が「人生を変えたい!」と潜在意識に注目しがちになり、なぜかそれは「脳」(脳科学)が管轄していると思いがちになるが

潜在意識は身体が担当しているものであり、上記のように『受』の状態を変えていくのも身体からのアプローチが必要になる。

人生を本当に変えていきたい場合、精神的な「意識」だけで解決できる話ではないと気づけるかどうかである。

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