明治神宮の敷地内にある広大な広場でアーシングをしながら巨大な桜🌸の枝を折ったり、花を摘んだりして遊ぶ2人の男の子をボーッと眺めていた。その近くに母親たちがおり、注意をせずに話し込んでいた。
昔のわたしなら「あぁ、桜がかわいそうだ。なんで親は注意しないのか!」とイラッとしただろう。
だけど今回は桜がとても楽しそうに見えたのだ。
それをジーッと見ていたら、桜の意識がわたしの中に流れこんできた。
「わたしは子供たちと遊んでいる」と。
わたしはハッと気付いてしまった。
桜の枝は折れただけ、なのだ。
そして、折られたり花を摘まれたりすることで、
桜と子供が遊ぶことで、結果的に何かが子供に伝わるのかもしれない、と。
わたしが勝手に痛そうだの、かわいそうだの意味づけをしていたのだ。
「そうか、そうだよね」
傷つけられても大丈夫
そこで終わるかと思っていたら、先程お風呂に入っているときにまたまた気付いてしまった。
「そうか!折ってはいけない、傷つけてはいけないと思うのは、自分が傷つけられたくないからだ!!!」
閃いてしまった。
傷つけられても大丈夫なのだ。
折られても大丈夫なのだ。
ただ、傷ついただけなのだ。
ただ、折れただけなのだ。
それは悪いことじゃない。
そこには愛があるのだ。
教える、学ぶという愛があるのだ。
だから、
自分は何かに傷つけられてもいいのだ。
自分は何かに折られてもいいのだ。
安西光(自分)という桜には変わりないのだから。
それがわかったこの瞬間から、
きっと誰かに枝を折らないように、傷つけないようにと思わなくなるだろう。