昨日は久しぶりにものすごーく腹立たしいことがありました。
腹立たしいと書くと怒りのイメージがありますが、怒りに満ちていたかというとそうではなくて、深海のような深い深い悲しみです。
こういうとき、わたしはものすごく自分のことを内観するようにしています。
わたしの生き方の癖の一つに、
相手から信頼されていなかったとき、近しい間柄であればあるほど、わたしはとても深い悲しみを感じます。
わたしにとってこれが一番ダメージがでかい。
ショックが大きすぎる時はそれまで全開で開いていたシャッターを「ガッッシャーン!」といきなり閉めてしまうこともあります。「あ、もう無理だわ」って悟ると一気に引きます。
きっと子供の頃に信頼されなかったことがショックなことがあったんだろうなぁ~と思います。それが潜在意識にあるので同じような出来事があると大きく反応します。
3年くらい前にも同じようなことが起こりました。
当時一番信頼していた親友でした。
彼女は他の人からは自信があるように見えるけど、本当は自己肯定感がとても低く、人のダメな部分を見つけては人の悪口やら文句が多い人でした。ダメ探しの達人でした。
そう書くと一見嫌われるタイプかと思いきや、カリスマ性があったのでとても人気が高かったです。
良い部分もたくさんあって、わたしはそこに惹かれて仲良くさせていただいていましたがあるとき長文の説教めいたメールが送られてきました。
わたしの在り方や人付き合いについてなど、わたしの大好きな人たちの悪口などを書いて送ってきました。
流行り言葉で説明するならば、いわゆる『正義中毒』と言われる方で自分の正義を他人に押しつける傾向が強い方でした。
親友ならちゃんと対峙するべきという考えもありましたが、ずっと彼女を見てきて「これは話しても伝わらないだろうな。話を聞き入れない人だろうな」と思い、そのまま何も言わず彼女とのお付き合いを断ちました。
彼女は同じようなことをして対人関係のトラブルが多かったのですが、こういった学びみたいなものは自分で気づいていくしかありません。
彼女はヒントはたくさんあったのに自分で気づく努力をしてこなかったのですから、わたしが言ったところでどうなるものでもないだろうというのがわたしの当時の判断でした。
内発的動機ではないと人は変わっていくことが難しいですし、上手くいかないですから。
色々なことを考えて「この人と一緒にいても自分の性格が悪くなるだけだ」と判断したのです。
それを機に共通の友人たちとのお付き合いもなくなりました。
結果的にはこれは正解で、これで良かったのだな思っています。
今回はもっともっと近しい方で、
信頼していた方だったし、信頼してほしいと思っていました。
人は信頼されていなかったとわかったとき、
「今までのわたしは何だったのだろう?」という想いだったり、信頼してもらえなかった自分への未熟感を感じたり、喪失感や無価値感やら、とにかくハンパなく浮かび上がってきますよね。
でも、3年前と大きく違っていたことは「信頼されていない」ってわかっていたこと。
人のペースはそれぞれ違うし、自己肯定感もわたしより低い人でしたから、ゆっくりゆっくり受け入れてくれたらいいなぁと思っていたのです。
だから「信頼されるかもしれないし信頼されないかもしれないけど、出来れば信頼してくれたらいいなぁ」
そういう覚悟があったので、あぁやっぱりダメなんだなって諦めにも近い心境です。
人は変わっていくことが自然なことであり、それが成長であるのに、
変わらないように努力をしている不自然な生き方をしている人が多いのです。
「自分から変わろうとしなければ、人は変わらない」
それを知っているからこそ、
もう受け入れるしかないのだろうと思っていました。
それから3年前は「伝えてもダメだろう」と決めつけていたことだけは当時言っておけばよかったなぁと感じていました。それは相手のためを思ってではなく、わたしが悪いこと、害になるようなこと一つもしていないのにわたしの中で全て我慢して留めておくことは意外と自分を苦しめるとわかったからです。
だから今回は自分のために相手には言いたいことは伝えました。
あとはもう流れに委ねるだけです。
とても悲しくて腹立たしかったけれども、今回はなぜか涙が出ませんでした。
それはショックすぎて涙が出ないのか、受け止める器が大きくなったのかはわかりませんが…。
3年前はとても悲しくてボーッとしていると涙が出てきたりしていたのに。
3年前の出来事のときに「他人に信頼されていないことで大きくショックを受けるのは、自分を信頼できていないからだ」と他人の信頼より自分を信頼していくことに努めてきたことも大いに関係あると思います。
今回のことは腹立たしいけど、俯瞰して自分のことを見つめられている自分がいて、「大丈夫だよ。他人の信頼がなくても大丈夫。自分だけは自分を信頼してあげていればいいよ。」と自分に対して労いの言葉を語りかけています。
確かに他人に信頼してもらえないのはショックは大きいですが、自分をヨシヨシする術を自分で身につけているようです。
自分が成長できている点がわかっただけでも今回の出来事は起こって良かったのだと思いました。
信頼されていないことに対してものすごくショックを受けたり、拒否反応を起こすのは、自分の中にもその要素が色濃くあるからです。何かしら信頼に関する課題(=自分を信頼できていないことが根本です)がわたしの中にあるのは気づいていました。
そして、3年前と同じようなことが起きたということは、まだまだ癒されていない自分がいて、伸びしろがあるということです。
「この出来事がわたしに教えてくれること、教えたいことはなんだろう?」
そう思って、いつも内観するのです。
今回は自分の心の動きや感情を見ていくと、3年前よりとても落ち着いており、自分の信頼度がアップしているように思います。
そのままを愛していくというのは難しいけれど、それでもそこへ向かっていきたい
わたしの考えている愛って、アガペー的なものなんです。
本当に信頼し合っていれば、その人の生き方や在り方などに口出しせず、そのままを愛せると思うのです。
○○をすれば愛します。
○○をしなかったら愛します。
○○をできたら愛します。
○○があれば愛します。
条件付きなんて、くそくらえです。
きっと、みんな目指すところは同じだろうけど、
自己愛が足りていない人はいつの間にかそれが「エゴ」になってしまう。
それを「愛」と勘違いしてしまう。
余計な心配や口出しって本当は「愛」じゃないってわたしは思うのです。
こういう出来事って人によってはトラウマになることもあるし、人間不信になったりすることもあります。
でも、わたしは負けない。腐らない。
そのままを愛していくというのは難しいけれど、それでもそこへ向かっていきたい。
わたしは変化を受け入れ、自然に生きていきたいと思っています。
大げさに言えば、変化しなくなったら人間として終わりくらいに思っています。
変化を楽しめる人間であれ。
そうすれば、いつか本当の愛を知ることができるんじゃないかと思っているのです。
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