物事に善いも悪いもないということ
「物事には善いも悪いもないということ」を実家へ帰省した時の母との会話で実感しました。
母から突然「あなたには本当に苦労かけさせた」と言われたんですね。
「突然なに?」と、何でそう思ったのかを聴いてみました。
整理をしていたら、小さい頃にわたしが書いた母宛のメモ帳がでてきたそうです。
母が一日中働きに出ている間、姉が作った家賃不払いや借金の督促の電話にいつも私が出て対応していたらしいのです。
まだ小学1年か2年で漢字が全く書けない時期だったため、全部ひらがなで相手の取り立ての伝言を大きな字で内容を細かく書いていたそうです。一生懸命お母さんに伝えなきゃという想いが伝わるメモです。
そのメモがいっぱい出てきて、切なくて泣けてしまったと言われました。
けど、当の本人は全く記憶なし😅
話を聴いて思い出そうとしても全くかすりもしません。
でも、その話を聴いていると客観的に考えるとすごいよねぇ。
他者の子供がそんな環境で過ごしていたら、わたしも切なくなります。
このように忘れてしまったネガティブな出来事っていっぱいあったのだろうなと思うと同時に、物事の善し悪しは出来事の内容ではなくて自分の解釈で変わり、それによって人生変わるってことが良くわかります。
母との会話には、アドラー心理学の要素がつまっていたなぁと感じました。
物事に善し悪しはなく、解釈できまるということ
家賃不払いや借金の督促を対応していた出来事って、人に寄ってはネガティブな想い出になってしまいますよね。
「いつもわたしがやらされていた」
「姉のせいでわたしはこんな面倒くさい辛い目にあっていた」
などなど。
わたしはネガティブな出来事を”負の出来事”と捉えず〈トラウマ〉にしなかったんですよね。
この話だけではなくて、客観的に見てもわたしの人生はトラウマになりうる出来事はたくさんあったわけですが、どの出来事も悲観的に捉えたりすることはありませんでした。
わたしはそれらネガティブな出来事をトラウマにしないと自己決定をし、生きてきたということになります。
アドラー心理学は「嫌われる勇気」の本の帯の影響もあってか「トラウマは存在しない!」というキャッチコピーで流行りました。その言葉が一人歩きしてアドラー心理学はトラウマを否定していると思われがちですが、アドラー自身はこう語っています。
いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分自身の経験によるショックーいわゆるトラウマーに苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。
アドラー・セレクション人生の意味の心理学(上)/翻訳岸見一郎/アルテ
「トラウマが存在しない」ではなく、トラウマ経験をしたことに対して自分でどう意味を与えるのか、意味づけするのか、ということです。
人間は環境や運命の犠牲者ではなく、自分の行動は自分で決められる…これを〈自己決定性〉と言います。
どんな境遇におかれても「幸せになれる人」になろう
例えば、いま現在心から幸せを感じていたら過去に辛い苦しい経験をしていたとしても「あの経験があったからこそだ」と建設的で前向きに考えることができます。
ですが、いま現在心が不幸せだったとしたら、どうでしょう?
「あの出来事のおかげで自分はこんなふうになってしまった」と非建設的で悲観的に考える可能性は高いです。
先日「楽しい想い出を子供に作ってあげることは出来るのでしょうか?」という質問をいただきました。
わたしの考えはこうです。
楽しいか辛いかを決めるのは子供であって、その子供の主観も大人になったら変わるかもしれません。
ですから、このような心配を親がしても仕方ないように思います。
もちろん、親として楽しい想い出づくりをしてあげたいと努める態度は必要なことですが、そればかりに考えて過ごすのもいかがなものかな?というのが個人的な考え方です。
親の子供に対する強い気持ちは、押しつけになることもあるからです。
それに、親の思う「楽しい」と子供の思う「楽しい」が本当に一致しているのでしょうか?
「楽しい想い出づくりを!」と考えるよりかは、子供に今後辛い出来事が起こっても建設的に前向きに考えることが出来る、困難を克服する力を養うことが必要なのだと思います。
そうすれば、どんな思い出も建設的で前向き・ポジティブな想い出となります。それらはわたしが幼少時代から実体験していることです。
今回は自分の実話を元にアドラー心理学の<自己決定性>について語ってみました(^^)
最後に皇后陛下美智子さまのお言葉で大好きな言葉を紹介いたします。
「幸せな子」を育てるのではなく、 どんな境遇におかれても「幸せになれる子」
皇后陛下美智子さま