父の日にシェアしていた記事があります。毎年結構読まれる記事です。
父が亡くなってから7年、ブログで記事にしたのが3年前です。
時間も随分と経ったので新しくリライトすることにしました。
父の日にしかあげられないプレゼント
幼少の頃に父母は離婚をしていて、中学生までは月1度の面会交渉で父とは会っていました。
大人になって「やっておいて本当によかったな」と思うことは、結構な割合で小さい頃に父から教わったことだったりします。お料理を教えてくれたのも実は父でした。
私が成長するにつれ、会う回数がどんどんと減っていき、そのうち電話だけになり、社会人になってから疎遠となりました。それから生き別れ状態となり、どこにいるのかもわからず消息不明でした。その期間が約15年。
震災の約1年前に突然父の居場所を知ることとなり、会いに行きました。
頭は白髪で真っ白。眼もうっすら白くなっていて白内障かな? 背が低くなったように感じました(わたしが大きくなっただけですね)
ちょっと性格も丸くなっていたけど、相変わらずの父でした。
「また遊びにくるからね!」と言いましたら、「もう会えないかもしれないから」そう言いながら笑って握手を求めてきました。
父と会ったのはそれが最後でした。
父の突然死、変死体で見つかる
震災から1ヵ月後、父は孤独死で変死体で見つかり、自宅で亡くなっていました。
村の人から話を聞くと死ぬ2日前はピンピンして歩いていて、自力で病院に通っていたとのこと。身体で悪いところはありませんでしたが震災の映像を観てPTSDとなり、弱っていったようでした。
父が死ぬ前に連絡を取り合ったのがわたしでした。
「ご飯があまり食べられないんだよ…」 そう言いながらも、わたしの身体の心配を最後までしてくれました。
「苦しんだ様子もなく、本人も死んだかどうかもわからないまま亡くなったと思います」と警察の方から検死結果を聞きました。
「あぁ、良かった。苦しまずに死んだんだ…」
もう、これだけが救いだったような…この段階ではこれしか考えられなかった。
父の自宅にもどり、亡くなった状態のまま残された現場をみて、ふと目に飛び込んできたのは灰皿でした。私が小学校の時にお小遣いを貯めて買った南部鉄器でつくられた灰皿。 細やかに細工がほどこされていたのに使いつぶされて模様がなくなってました。
「ずっと使ってくれていた」 もうそれだけで心にズドーンときてしまった。 遺品整理をしていると、これまたボロボロになった甚平やコーヒーカップやら出てくるわ出てくるわ、、、全部私が小さい頃に父の日にプレゼントをしたもの。
見つけるたびに心があったかくなりました。離れていても愛されていたんだなと思いました。 父が亡くなってから、ずっと忘れていたことを思いだしました。
父の誕生日すら私は知らない
「私は父の誕生日すら知らない」という事実でした。
小さい頃から父親不在だったから父の誕生日なんて知らなかったし、いつなんだろう?って思っても聞けませんでした。「親の誕生日を知らないのか?」と父が悲しくなるんじゃないかと思って聴けなかったのです。
そんなわたしにとって、日にちがわかっている父の日だけは自らプレゼントを用意でき祝える日でした。
誰かの誕生日を知っていること、祝ってもらえることは幸せなことなのだと思います。
父だけじゃなく、小さい頃から一家離散だった私にとって、家族全員集まって誕生日を祝うことすら「有り難し」でした。
「あぁ、なんてダメな娘だったんだろうか」という思いがこみ上げてきました。怒られてもいいから誕生日聞けば良かったと後悔しました。
父のことで思いを馳せることなんて一度もなかったのにその夜はずっと泣きました。
「人はいつ死んでもおかしくはない。今を生きろ。」
最後に父から生きていく上で一番大切な真理を教わりました。
それを教えるために神さまが最後に1回だけ会わせてくれたのだと思います。
明日死んでもおかしくないんです。
だから自分も周りの人たちにも、できるだけ楽しく生きて欲しい。
家族や周りの人も大切に。
優しく、時には厳しく、ぶつかり合いながらも心通わせて欲しいんです。
全ては有り難しですから。
お父さん、大切なこと教えてくれて本当にどうもありがとう。
PS 「今でもお父さんから教わったイカの塩辛つくってます」
全国のお父さんへ。
一緒にいたら子供はもちろん姿を見てるけど、一緒にいれないお父さんも絶対にいつか子供が感謝するときは訪れます。
虐待を受けていたわたしでも、父には感謝しています。
お父さんは世界でたった一人のお父さんなんですから。
遠く離れていても、子供はあなたのことを愛しています。
※2015.06.21に書いた記事を加筆修正しています。