対人関係にトラブルがあったとき、第三者として見ていると大概はどっちもどっちであることが多い。
よく「あの人が原因を作った!」と相手を責める人間もいるが、「あの人にそうさせた私」というのが存在することも忘れてはいけない。
例えば、わたしがとんでもないダメ男と付き合ってボロ雑巾のように捨てたれたとしよう。
「あんなダメ男、最低!」と相手の悪口・ダメ出しなどボロクソに言って相手の評判をいかに落とそうかと必死になったり、相手のせいにするのが他責の世界。
「あんなダメ男を選んだのは紛れもなく私である」という自責の部分を忘れなければ、きっと相手だけのせいにすることはないように思うし、相手のことを一方的に責めることはできないように思う。
これは全ての対人関係にいえることで、わたしが対人関係トラブルにあったとき、相手のせいだけではないと思うようにしているし、実際に相手だけのせいではないことがほとんどだ。
もちろん、ほぼ100%相手が悪いと思えるような理解不能、理不尽極まりないものもたまにある。だけど、どのような場合でも他責一色の世界にならないように自責の部分を見つけるようにしている。
それは自分がドMだからとか、自虐的に追い込むとか、そんなんじゃなくて。自分がよりよくなるためにそういうことも必要だと思っているからだ。
「もっと別のやり方があったのではないか?」
「自分は我慢して付き合っていなかっただろうか?」
「自分はちゃんと伝えていただろうか?」
そういった自分のやり方や反省点を一つ一つ丁寧に考えることによって、今後の自分の対人関係は明らかに変わっていくように思うし、とても建設的だと思うのだ。
だいたい、誰かをダメ出ししたり、責める人間は「自分はできている」と勘違いしていることが多い。自分のほうができていると思っているから人を責められるのである。
そして、「どうにか相手を変えてやろう」「自分のほうが正しい」という想いを抱えており、それらがビンビン感じられる。
「自分は普段から出来ていないし、迷惑をかけあっちゃったけど、お互い様だから水に流そうね」と根っこにそのような気持ちを持つことはとても大切なように思う。
他責の世界から抜け出して、自責をいくつ見つけられるか。
連鎖を止められるか。
それをしていくことが成熟した大人なのではなかろうか。
自責の世界の住人になると決めること
どちらが先かなんて関係なく、言い返した時点でお互いに同じ世界に住んでいる。
自責というのは「自分の責任だから」と自分で思い感じるのが自責であって、誰かに対して「自分のせいなんだから反省しろ!」と責めた時点でその人は他責の世界に住んでいることに気がつくことが必要だ。
自分は自責を大切にする人間だと思いきや、お互いに他者を責めている。
どちらも他責の世界に住んでいる。他責の世界に住む者同士がトラブルになるのは当たり前のこと。
わたしはできるかぎり自責の世界に住むと決めた。
だから、言い返さない。放置。沈黙。不毛な争いは繰り返さない。
だから、わたしのところでストップさせるのだ。
向こうからしてきたから私は悪くないなんて構図を続けていくのは事の大きさが違うだけで戦争の構図となんらかわらない。戦争の元となるようなことをやっておきながら「戦争反対!」などと言っている人がどれだけいるだろうか。
「こっちの世界にいたつもりだったのに、いつの間にかあっちの世界にいた」
「こっち」と「あっち」には色々な言葉を当てはめることができる。
このトリックに気づき、自分の向上にだけ眼を向けて、自責の世界に住み続けられるかどうかがパラダイムシフトに繋がるのだと思う。