このブログは真面目な長ったらしい記事であればあるほどアクセス数が多い傾向にあるのですが、きっとこのブログに求められていることはそこなのだろうなと思います。
こういった「自分の好きなテーマだから読みにくる」という人の流れといいますか、心理といいますか、ブログをやり始めてより一層わかるようになりました。
まぁそうだよね…なんて思いつつ、時折それで本当にいいのだろうか?と投げかけたくなる時があります。
わかりやすい世界にいると頭が悪くなる
一般的に役にたつ記事や言えないことを代弁してくれるようなハッキリした意見の記事、共感できる面白い記事などは人が集まりやすいとは思います。
タイトルがわかりやすければ、それに惹かれてクリックしてしまうこともありますよね。
発信者の知名度が上がってくると目につきやすく、さらにわかりやすくなり様々な人間がその記事を読みにいくことになります。
当たり前のことだけど、お金や権力や地位って目に見えるので本当にわかりやすい。
ネットの世界だと集客力、影響力、拡散力、アクセス数とか。
でも、わかりやすいものばかりを基準にして選んでいったら、わかりにくいものから何かを見つけたり感じたりすることができなくなっていくような気がするんですよ。
自分の読みたいもの(タイトル)だけを読みにいく、求めている意見だけを読みにいく、都合のいいものだけを取り入れるというのは自分の頭が悪くなってしまいそう。
何気ないものから仏性を見つけることが智慧力を育てる
普段の生活の中での何気ない一言や何気ない仕草、何気ない風景など
一番近くにある身の回りのものから何かを見出したり、自分への学びを見つけること<仏性を見つける>のが智慧力なのではないだろうか、と思う。
智慧力とは仏の眼で物事を見ること、聴くこと、感じることだとわたしは思う。
普段の生活の中で家族や友人などの周囲の人たちから学びを見つけることができない人たちほど、そういったネットのわかりやすい記事や有名人やパワーブロガーの言葉、わけのわからんセミナーや地に足がついていないスピリチュアル系などに飛びつきやすく騙されやすい。
そういう人たちがどんなにいい記事や文章などを読んだとしても、ちゃんと受け取ることはないように思う。
だって、仏の眼で物事を見ることも、聴くことも、感じることもできていないのですから。
智慧力は訓練していかなければ磨かれることはない。
智慧力を身につけるには普段の生活を見渡して仏性を見つける努力をすること。
家族や友人など近しい人たちから学びを受け取れないようでは、赤の他人の言葉からなんて当然受け取れることはないのです。
仏になったつもりで見る、聴く、感じる
わたしのブログも真面目な長ったらしい記事以外に書評やおでかけしたときの記事をアップしていますが、そういった何気ない日々の記事にもわたしなりに報告だけにならないように何かに繋がるような形で記事を書くようにしています。
「なんだ本の感想か」「なんだイベントの記事か」なんて先入観をもって読みにこないことで損をすることだってあるかもしれない。
そこに自分の求めていることが書いてあるかもしれない(と思ってわたしは他人の記事を読みに行ってる)
記事を選ばなくても仏になったつもりで見れば、どんな記事からでも学べるものです。
そして、いちいち遠い距離にいる人なんかに学びを得ようとしなくても、普段の生活の中で学ぶこともできるし、家族や友人などの周囲の人たちから学べます。
何気ないもの、当たり前のものを
仏になったつもりで見る、聴く、感じる。
それが大事なのだと思うなぁ。