これはあくまでも例え話ですが、わたしが「許すことは大切だよ」というテーマに記事を書いたとします。そして、数日経ってから「許さなくてもいい」というテーマで記事を書いたとしましょう。
それに対して「前は許すことは大切って書いていましたよね?矛盾していますよね?」とケチをつけ裁きたがる人や「許す」と書いてあったことを変に信じてしまって自分を蔑ろにするような存在の人にも許してしまう人がいる。
なんとな~くという感覚で、こういうことあるよねという感覚で、物を見る、話を聴く、文章を読むということができない人は結構いる。
両極端のどちらかにはめこんで、そこで満足してしまうと、そこからさらに深く考えることができなくなる。考えなくていいから、楽といえば楽なのかもしれない。
世の中に「正解」もないし、「不正解」もない
言葉や態度というのはその時の状況、目の前の人によって変わるものであって
相手が頑張り屋さんで無理するタイプなら「頑張らなくていいよ」と言うし、相手が怠け者だったら「もうちょっと頑張ったほうがいいんじゃない?」という時だってあるだろう。
基本的に許すことは大切だと考えているが「DVをする相手も許したほうがいいのでしょうか?」と聴かれたら「そんなの許さず、別れたほうがいいよ」と答えるだろうし、
みんな仲良くしようねと思っていても、注意しても迷惑行為を何度も行う人、悪口をいう人などと無理に仲良くする必要はないと答えるでしょう。
目の前の人が幸せになるためには?と考えて、言い方を変えて伝えてあげる。
これを方便というのだと思います。
※本来は「方便」は仏教用語で、衆生を教え導く巧みな手段や、真実の教法に誘い入れるために仮に設けた教えを意味します。簡単に言うと「嘘をついてはいけないことが前提で、言い方を変えて教えてあげること」です。
物事には様々な背景、見方というものがある。
許すことが正解の時もあれば、許さないが正解の時もあるものだ。
世の中に「正解」もないし、「不正解」もない。
だから「正解」か「不正解」かで物事を考えないこと。
その人の性格、物事の背景(条件)によって答えは異なるから
「相手にとって、建設的か非建設的か」で考える。
だから答えが変わるのです。
「白」か「黒」か、
「0」か「100」か、
「よい」か「悪い」か、
「○」か「×」か、
その考え方をちょっと広げて
「白」と「黒」の間には「何通りものグレー」がある
「0」と「100」の間には「1~99」がある
「よい」と「悪い」の間には、「まぁまぁ、程よい、適当」がある
「○」と「×」の他に「△」がある
その曖昧なグレーの部分から相手にあった答えを選択する。
同じ答えなんてないから、対人関係は楽しいのです。
上記の対極の間にあるものは、二極を ” 繋げている ” ものであったりする。
この繋がりの世界で生きる努力<分別をなくす>をしていくことが、生きづらさを減らすことにつながりますね。
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