こころとカラダのセラピスト/認知症リハビリテーション専門士のアンザイ ヒカルです。
今回の記事は前回の続きと言っていいのかもしれません。
前回、「真の治療家を目指すのであれば、与える行為が相手にとって毒にもなることも知らなければいけない」の言葉で締めました。今回はそのことについて書いていきたいと思います。
もしよろしければ前回の記事を読んでから今回の記事を読んでいただけると嬉しいです。
『与える』『癒す』も、毒と心得ること
前回の記事で「母が自分と向き合って苦しんでいても慰めもしないし、答えを言わない」と書きました。
そして「これをしないと認知症は改善しないとわかっているから」とも書きました。
認知症に限らずの話ですが「病を治したい」「人生を変えたい」とき
本人が自分自身と向き合ってこれまでの自分について反省しないのであれば、本質的に病が治ることもないし、生きづらさがなくなることはないということです。
世の中には様々な情報や言葉が溢れかえっています。それらの情報や言葉に飛びついて、自分で考えないで生きている人がほとんどかもしれません。
楽に・簡単に・都合よく
現状を抜け出したくて、すぐに良くなりたくてその情報を信じて飛びつきます。
だから、人生も変わらないし、病気も治らないし、心身ともに健康にもなれないのです。
話は少々変わりますが、食事において精製されたものはカラダに悪いという認識は広まってきましたよね。
「白いもの(精製糖や白米、小麦粉)よりは茶色いものを(茶色い砂糖や玄米、全粒粉等)」と一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
精製されたものの厄介な点として、今すぐ身体に出るようなものではなく5年後10年後にその結果が表れることです。(なぜ精製されたものがカラダに悪いかわからない方は検索すれば出てきますのでご自分で調べてください)
それを世の中の絶対原則であるフラクタル理論を当てはめてみると言葉や内容などにも当てはまるのではないでしょうか?
精製された言葉や内容(綺麗な言葉やわかりやすい言葉や内容など)がその人にとって為になるかと言われたら、
今の苦しみを取り除くために、そして欲するために、今は「聞けてよかった!」と思っても、その態度を続けることによって結果、綺麗な言葉やわかりやすい言葉でしか物事がわからない人間となり、わかりやすい内容ばかりを選んできたから考えない人間の出来上がりとなります。
5年後、10年後にはその人の精神性をさらに悪化させている可能性があります。
年月がかかるので本人はなぜそうなったのか気づかないのです。
食事と一緒なんです。
食事だけではなく、カラダから説明もすることができます。
例えば風邪をひいて熱が出たとします。
熱が出るという症状は病気が治るために必要なものであり、本来はそのまま自然に症状を出し切ったほうがいいのです。そのほうが治りも早いです。
「症状=必要だから出ているもの、自分にとって良いこと」と知ることが大事なのです。
ですが、多くの人は熱を下げるために対処療法として薬を飲んでしまいます。
症状を悪いものとして捉え、人間の都合に合わないと判断し「症状を無くしたい」と対処療法を選ぶのです。
病気が治るために出ていた症状を強制的に抑制するわけですから、結果完治せず風邪が長引くといった状態になります。
このようなことを続けていくと自己治癒力もなくなっていくわけです。
食事やカラダからの肉体バージョンで説明してみましたが、精神的なことでもこれと同じことが起こるということです。
わかりやすく綺麗にまとめられた言葉(精製された言葉や内容)や、その人のよい部分しか表現しないポジティブな言葉などは、薬と一緒です。
精製されたわかりやすい綺麗な言葉だから効き目もその時は効果を発揮するかもしれません。
でも、肉体と一緒で本来自力で治せるはずだったもの、考えることができる能力であったにも関わらず、わかりやすく綺麗にまとめられた言葉やポジティブな言葉が与えられ続け、そして選択し続けたことによって、それが当たり前になると「自分自身と対話して答えを出す力」や「自分で物を考え創意工夫する力」などが育まれず、結果、自分で考えることができない、人生を自分の力で変えることができない人間になっていくのです。
肉体も精神もその場しのぎの対処療法を使って一時的に楽になったり上手くいくことで、人は「治った」と勘違いします。
そして、結局それが正解だと思い込み、その手法を使い続けるようになっていきます。
原因(向き合わないといけない精神部分)を回避していくために依存度が増し、いつかその場しのぎの限界が来たときに悪化するか、身体に病として発生します。
簡単に教える、与えるということが長い視点で本当にその人の為になるでしょうか。
役に立つ動画や情報が本当に将来的にもその人にとって役に立つものとなるのでしょうか。
人に役に立つとは、どういうことなのでしょうかね。
相手に「これはこうだ」と指導しているだけでは、本当は指導者のコピーをつくっているだけと心得なければいけません。
目の前の人が、本当にその人自身として輝くためには、当人が自分で答えを見つけ出すために考えないといけないのです。
わたしは認知症改善をきっかけに技術以外にも「治療家の在り方」などについても日々考えています。
自分が相手を変えてやろう、治してやろうなんておこがましく、そう思った途端に「治らない・改善しない」のです。
わたしが「治さない」から、相手は「治る」のです。
治すのは、自分自身です。