皆さん、こんにちは。
こころとカラダを繋ぐセラピスト/認知症リハビリテーション専門士の安西 光です。
最近わたしは『肌』について興味を持っています。
心を変えていくのに『肌』からのアプローチはとても有効ではないか?と考え、特に時間をかけて今勉強しているところです。
そこに気づけたのは桜美林大学教授の山口創さんの『手の治癒力』という著書を読んだことがきっかけでした。
別に肌のことが知りたかったわけではなく、手の治癒力について知りたくてタイトルがドンピシャだったので手にとってみた。そこからどうやら脳と肌はつながっているらしいと知ることとなったのです。
認知症である人の心を変えるにはどうすればいいのか?
会話を覚えていられない、なかなか言葉が入っていかない認知症である人の心を変えていくことは本当に忍耐力もいるし非常に難しい。が、不可能ではないことを自身の体験から知っています。
そして、その難しいところに挑戦したいと思う自分もいる。
わたしは「身体からのアプローチ(オイルマッサージ)から潜在意識を変えられる」という自身の体験を持っていて、もう何年も前から経験していたことである。だから、脳と肌のつながりの知識がとても腑に落ちたのだった。
そこから「肌から心が変えられるのではないか?」と皮フについて興味を持つようになっていったのだった。
皮フは露出した脳である
『皮脳同根(ひのうどうこん)』という言葉がある。
皮フと脳が同じ根っこから来ているという意味の言葉である。
受精卵が分裂する際に「内胚葉」「中胚葉」「外胚葉」という3つの層に分かれていくのだが、皮フと脳は外胚葉から形成されていて発生起源が同じである(ちなみに感覚器官も外胚葉)
そこから脳と同じように皮フも学習や記憶をしているのではないか?と考えられている(幼少の頃の触れられた感覚や記憶:快・不快など)
そして、学習や記憶だけではなく、皮フは外界との境界の役割がある。
※画像は社団法人認知症高齢者研究所の「心と脳 ~第1章 誕生~★人生40億回の鼓動★」よりお借りしました
皮フが鎧のように強くて厚いと外部からの様々な刺激を跳ね返す力があるが、脆い皮フは外部からの様々な刺激を跳ね返すことができず自分の中に取り込んでしまいやすい。
脆い皮フであった場合、自分というのをきちんと確立されていないことも多く、境界がしっかりできていないために自分と他者の区別がつかないといったことが起こるそうだ(代表とされるのが統合失調症など)
豊かな皮フ感覚=心の健康でもある、ということだ。
触覚は自己認知(自己肯定感)に関わる
実は肌については以前ブログで書いた仏教の五蘊や『感受』と大いに関係ある話であり、肌を調べる前にはこの『感受』が非常に大事であるとわたしの中で答えを導き出していた。
仏教の五蘊は『色・受・想・行・識』の順番であるが、それはわたしたち「人間の発達の順番でもある」と気づいたのだった。詳しいことは上記のブログをあわせて読んでいただきたいのだが、簡単に図で説明すると以下のようになる。
『色』は物体。私たちの肉体である。
(雨が降ってきて *雨と身体の物体同士がぶつかる)
その次に『受』、これは感受である。
感覚器官に触れて感じること。そう、肌に触れた感触のことである。
(雨がポツンとあたり *何かが当たったと思う)
そこから当たったものの感触や温度などをイメージして想念が働く。
それが『想』である。
(雨であることに気づく *当たったものの感触や温度などをイメージして)
『想』に対して意志が生まれる。
ああしたい、こうしたいという意志。それが『行』である。
(雨に濡れたくない!と思い走って帰る *〜したいという意志)
最後の『識』は経験や体験によって増殖していく認識や価値観などを「識」と呼ぶ。
頭で分析したり、思考の部分であると思う。
(急に雨に降られてしまったので今度は傘を持って行こう *雨の日のいい思い出や悪い思い出などの記憶など蓄積)
これらのことが一瞬の間に私たちの身体や頭の中で行われており、その繰り返しである。
※詳しい説明は下記のブログを参照いただきたい
実際に人間の身体の発達もこの通りに進んでいく。
まず肉体を持ち、生まれる。
そして感覚、その次が感情、頭が発達していく。
これに気づいたとき、仏教の深さをまた感じたのであった。
そして『無明』の状態になってしまうということである。感受ができないと人生に迷い続ける。
「”感じること”で人生は変わる!」ともよく言われるが、それらにも通ずる話である。
『受』というのは、身体の内外をありのままに受けとる力であり《カラダの智慧》でもある。
現代人はこの『受』=カラダで感じることが出来ていない。迷いや煩悩の世界にどっぷりと浸かる状態となると言っていい。
上記のブログでも述べているように【感受ができないと人生迷い続ける】
受け取りが正常にできないということは外部への認知のみならず、自己認知も狂ってくるということになる。
それはまさに自己肯定感にもつながってくる。
このことを知れば、『感受』というのがどれほど大切であるかというのは想像ができるであろう。
肌から心を変えていく
認知症や発達障害にも関係のある感覚統合についても以前ラジオでお話ししたことがあるが、この感覚が統合されていない=『感受』が正常にできていない人が増えている。感受がうまく働かないためそれが症状として表れ、その状態に病名をつけられていっているといった現状なのである。
わたしは認知症改善をきっかけに身体について様々な角度から学んでいるが、今の段階で言えることはこの『感受』をいかに取り戻すかといったことが非常に大事になってくるように思う。
そして先ほども述べたように触覚というのは自己認知(自己肯定感)に関わるものでもある。
触れること=「認め、受け入れ、支えること」
この『感受』をとりもどしていくには、やはり「肌に触る」ことが重要になってくる。
なぜ、身体を通したアプローチがいいのか?
「心で感じてみましょう」
そう言葉でいわれても、なかなか心で感じることが出来ない人もいるのではないだろうか?
そもそもどうすれば「感じること」ができるのかわからない人もいれば、身体的にその「感じること」が正常にできない人が世の中にはたくさんいることも事実だからだ。
感覚統合されていなければ「自分の心を感じて」みても、その感じたものが本当にそのまま感じているのかが疑わしいということだ。解釈が捻じ曲がったり、そのまま受けとるということができない身体であるかもしれない。
だから言葉を通しての「心で感じる」をうながすことは限界があるとわたしは感じている。
脳に触れることは出来ないのだが、皮フは露出した脳であるので皮フを通して心に働きかけることはできる。
実際に布の肌触りなどで心の状態がつくられているなどの研究結果も出ているし、触られるとストレスホルモンであるコルチゾールを抑制し、幸せホルモンと言われるオキシトシンも増大する。
そして原始感覚系の固有感覚(深部感覚ともいわれる。筋肉や腱、関節などを通して捉える感覚)を十分に刺激をする触れ方をすれば潜在意識(深層心理)を変えていくことも可能となってくる。
触れられる体験によって、自己の無意識領域の一部が顕在化していったり、幼少期の触れられた不快な感覚や記憶を実際に触れることによって「快」を増やし感覚を上書きしていくこと、安心感を得ていくことが出来るのではないだろうか。
触れること=「認め、受け入れ、支えること」であるという。
認知症など対話がなかなかできない人、感覚統合ができておらず言葉の解釈などがすれ違ってしまう人たちに、会話などができなくても「触れることで心は変えることできる」というわけである。
もちろん、健常である人たちにも当然効果はあるのでおすすめしたい。
わたしのサービス(ホリスティックセラピー)で実際にオイルマッサージもさせていただいているが、直に肌に触れてもらうというのは安心できるようでお客様から大変好評です。
そんなわけでこれから肌に触れるサービスを少しずつ増やしていけたらいいなと思っています😊
興味のある方は是非体験してみてくださいね。