「自己受容」というと、
自分を好きになる。
自分を認める。
自分に優しくする。
そんなイメージを持つ人も多いと思います。
もちろん、それも自己受容のひとつの現れかもしれません。
でも、
「私は素晴らしい」
「私はこれでいい」
「私は悪くない」
と自分に言い聞かせることだけが、自己受容なのでしょうか。
私はそうは思いません。
自分の中には、
優しい自分もいる。
意地悪な自分もいる。
人を愛する自分もいれば、嫉妬する自分もいる。
勇気のある自分もいれば、
逃げたい自分もいる。
誰かを許したい自分もいれば、
「絶対許したくない!」と思っている自分だっている。
それら全部が自分です。
「こんな自分はダメだ」も、自分の中に起きている
たとえば、
「また失敗した。私ってダメだなぁ」
と思ったとします。
自己受容の実践をしていると、
「そんなふうに自分を否定しちゃダメ!」
と思うこともあるかもしれません。
自己否定している自分を否定する。
ややこしいですよね(笑)
でも、
「私ってダメだなぁ」
という気持ちが今あるなら、
それも今の自分の中に起きていることです。
だったら、
「ああ、今わたし、自分のことダメだと思ってるんだな」
でいいのです。
すぐに肯定へ変えなくてもいい。
消さなくてもいい。
ただ、「それ」があることを知る。
わたしは、そちらのほうが自己受容に近いと思っています。
光も闇もある自分を、そのまま見られるようになる
人間には、いろいろな面があります。
美しいところだけではありません。
醜いところもある。
弱いところもある。
ずるいところもある。
どうしようもなく情けないところもある。
でも、それをなくしたら「完全な人間」になるわけではありません。
むしろ、
それらも含めて人間なのではないでしょうか。
だから私は、
闇を克服して光になる、
というより、
光も闇もある自分を、そのまま見られるようになる。
そんな感じのほうが好きです。
自己受容は「自分を変えるため」にするものではない
以前の私は、
自分の不完全なところと向き合い、
反省して、
変えて、
成長していく。
ということをしてきました。
それが必要な時期もあったし、
今でも「自分と向き合う」という意味では大切だと思っています。
でも今は、
少し違うところから眺めています。
自分と向き合うのは、自分を変えるためじゃなくてもいい。
変わってもいい。
変わらなくてもいい。
「ここ嫌だなぁ」
と思っていてもいい。
それでも、
「これも今の私なんだな」
と見ることはできる。
そして不思議なことに、
変えよう、変えようとしていたときよりも、
ただ見られるようになったときのほうが、
自然に何かが変わっていくこともあります。
「反省」と「自己攻撃」は違う
もちろん、
「全部そのままでいいんだから、何をしてもいい」
という話でもありません。
誰かを傷つけたなら、
「あれは良くなかったな」
と思うこともある。
間違えたなら謝る。
必要なら行動を変える。
それも大切なことだと思います。
でも、
「あの行動は良くなかった」と、
「だから私はダメな人間だ」は違います。
自分の行動を振り返ることと、
自分の存在そのものを攻撃することは、
同じではありません。
自分を罰しなくても、反省することはできます。
お釈迦様だって、人間だった
以前、瀬戸内寂聴さんの小説『釈迦』を読んだとき、
わたしがとても印象に残ったのは、
そこに描かれていたお釈迦様が、
とても人間くさかったことでした。
後悔もある。
苦しみもある。
懺悔のかたまりのような人間として描かれておりました。
私はその姿が好きでした。
悟った人というと、
迷わない。
怒らない。
傷つかない。
いつでも穏やか。
そんな「完成された人」を想像しがちです。
でも、
人間であることを捨てた先に何かがあるわけではないのかもしれない。
むしろ、
人間として生まれて、
いろんなものを感じ、
迷い、間違え、
泣き、笑い、
それら全部を経験する。
それでいいんじゃないかと思います。
「懺悔してきたからこそ釈迦なのだ」
ということがわたしの中ではとても腑に落ちたのです。
自己否定さえ、否定しなくていい
自己否定さえ、否定しなくていい。
「私なんてダメだ」
と思う日があってもいい。
「こんな自分、嫌いだ」
と思うことがあってもいい。
それを急いで、
「私は素晴らしい!」
に変えなくてもいい。
ただ、
「ああ、今そう感じてるんだな」
と見てみる。
そこにいる自分を置き去りにしない。
それもまた、
自分を受け容れるということなのではないでしょうか。
光だけじゃない。
闇だけでもない。
肯定だけじゃない。
否定だけでもない。
いろんな自分がいる。
それ全部ひっくるめて、
「ああ、これが私なんだな」
でいい。
自己受容ってそのくらいのものなんじゃないかと思っています。